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再建を願う…琉球王国の栄華を誇る首里城の歴史と施設

新里 千穂

首里城の正殿

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2019年10月31日未明、沖縄のシンボルとして親しまれていた「首里城」から火の手が上がりました。

正殿(せいでん)・北殿(ほくでん)・南殿(なんでん)がほぼ全焼。正殿前の御庭(うなー)の入り口「奉神門(ほうしんもん)」や、南殿に隣接する「書院」も延焼による被害を受けたそうです。※

※消防、警察、関係各所の方々の尽力により、31日午後1時半ごろに鎮火。計7棟がほぼ全焼で火元の原因は調査中。消化にあたった消防隊員さんが脱水症状で搬送されたとのことですが、命に別状はないとのこと。本当に良かったです。

幸いにもけが人はいないとのことですが、沖縄県民にとっては家族を、友人を、隣人をなくしたようなもの。

首里に住む人だけでなく、県内外、国外にいる全ての沖縄人(うちなーんちゅ)、そして沖縄を愛してくれている方の心にも、悲しさが広がっていることでしょう。

今回は、琉球の時代から沖縄の人々の心に光を灯し続けた「首里城」の歴史をお伝えします。

この記事が、少しでも心の慰めになれば幸いです。

琉球王国の歴史とともに振り返る 沖縄のシンボル首里城の歩み

首里城の正殿

那覇の街を一望できる高台に位置する首里城は、遥か昔から沖縄人の暮らしの中に息づいてきました。

独特の赤をまとう絢爛の城。

琉球の歴史を語る上でなくてはならない大切な遺産。

そんな首里城の歴史を、琉球王国の歴史と一緒にご紹介していきます。

・そもそも琉球王国とは

琉球王国とは、1429年から1879年までの450年間にわたり南西諸島に存在していた王制の国です。

12世紀ごろ(日本は鎌倉時代)、琉球諸島(現在の奄美諸島から八重山列島までの一帯)に政治的勢力が登場。各地に「按司(あじ)」と呼ばれる豪族が現れ、抗争と和解を繰り返していました。

しばらくすると、北部の「北山(ほくざん)」、中部の「中山(ちゅうざん)」、南部の「南山(なんざん)」の3つの国にまとまり、約100年もの間3つの王統は並立します(三山時代)。

その間、首里城は中山の城として使われていたことが分かっているそうです。

その後、尚巴志(しょうはし)は中山王・武寧(ぶねい)を攻め滅ぼし、父である尚思紹(しょうししょう)を中山王に。1422年に父が亡くなると自らが中山王に即位します。

さらに1429年、尚巴志は主要な按司を統括し、北山・中山・南山の三山を統一。琉球王国の初代国王となり、王国の礎を築くことになります。

なお、琉球王国は恵まれた立地を生かして中国や朝鮮、東南アジア、日本と外交・貿易を行い、屈指の海洋王国へと成長していきます。

独自の文化を発展させて、舞台は次代へと続いていくのです。

・約450年間、王城として王国の行く末を見守る

首里城から見下ろす街並み

首里城は14世紀半ばごろに築かれた城であり、石垣と城門が多い城としても知られています。

曲線を描く城壁の中には正殿をはじめとする様々な施設・広場があり、また信仰を司る聖地も存在します。

三山時代は中山の城として使われていた首里城ですが、三山統一後は琉球王国の拠点となり、王家の居城として用いられるように。

以来、第一尚氏王統・第二尚氏王統と約450年もの間(1429-1879)、首里城は王城として琉球王国の行く末を見守ってきたのです。

・政権交代前後で呼び方が変わる琉球王国

実は、琉球王国には一度だけ大きな政権交代がありました。

琉球王朝が成立してから約40年後の1469年、伊是名島(いぜなじま)の金丸(かなまる)がクーデターを起こし政権を奪取。新王朝を築いたのです。

金丸は前例に則り、また中国皇帝に配慮して尚王家を継承し、「尚円王(しょうえんおう)」と名乗ります。

このことから、琉球王国の歴史では政権交代以前の王朝を「第一尚氏王統」、それ以後を「第二尚氏王統」と呼び分けているのです。

なお、第二尚氏王統は、尚円王から数えて19代目の国王・尚泰(しょうたい)の時代まで約400年間続きました。

・政治や外交、文化・芸術の中心地

首里城は、琉球王国の政治・外交・文化の中心として栄華を誇った場所。

交易が盛んだったことから中国や日本の建築文化の影響が随所に見られ、特に正殿や北殿、南殿はその影響を強く受けています。

その独特の建築様式や石組み技術には文化的・歴史的な価値があるとされ、2000年(平成12年)12月には「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の一つとして世界文化遺産に登録されました。

また、首里城は国王とその家族が住む「王宮」であり、行政機関「首里王府」の本部であり、王国祭祀(さいし)を運営する宗教上の連絡拠点でもありました。

加えて、首里城周辺では音楽や芸能が盛んに演じられ、たくさんの美術・工芸の専門家が切磋琢磨しながら活躍していたそうです。

・焼失と復元を繰り返す首里城

首里城はこれまで数回の焼失・復元(再建)を繰り返してきました。

・1453年 王位継承権争い「志魯(しろ)・布里(ふり)の乱」にて全焼

・1660年 失火により全焼(1672年に再建)

・1709年 失火により全焼(1712年に再建開始、1715年正殿再建完了)

・1945年 沖縄戦(第二次世界大戦)により壊滅

1958年に守礼門が復元されてから約60年、1992年に首里城公園の一部が開園してから約30年弱。またもや火災によって全焼してしまいました。

しかし、これまで何度も何度も蘇ってきた首里城ならもう一度輝く姿を見せてくれるのでは…と思えてなりません。

首里城公園内のめぐる 守礼門から正殿までの間にある9つの建造物

首里城公園の敷地内図

首里城は、正殿を中心に広がる国営公園。那覇市内を一望できる高台にあり、夜は幻想的に浮かび上がる守礼門(しゅれいもん)を見られる観光地として知られています。

守礼門や正殿などの他、園比嘉武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)、歓会門(かんかいもん)、龍樋(りゅうひ)など、貴重な歴史的文化材を見ることが可能です。

以下では、守礼門から正殿に行くまでに見られる施設・建造物をご紹介します。

・守礼門(しゅれいもん)

守礼門

ゆるやかな坂道をのぼると見えてくる守礼門は、第二尚氏王統4代目・尚清王(しょうせいおう)の時代に創建されました(1527-1555)。

守礼とは"礼節を重んじる"という意味であり、門扉の上部にある扁額(へんがく)には「守禮之邦(しゅれいのくに)※」という言葉が掲げられています。

※「琉球は礼節を重んずる国である」という意味。

中国風の牌楼(ぱいろう)という形式で建てられており、デザイン性の高い門として人気があります。

首里城の城門や建築物には、公式の名称の他に別名が付けられていることをご存じでしょうか。

守礼門は古くは首里門(しゅりもん)とも呼ばれていましたが、庶民からは「上の綾門(いいのあやじょう)※」という愛称で親しまれていました。

※「上のほうにある美しい門」という意味。

1933年に国宝に指定されましたが沖縄戦で焼失。しかし、1958年に復元して現在に至ります。

なお、2000年に造られた記念紙幣である2千円札の絵柄にもなっていますよ。

・園比嘉武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)

園比嘉武御嶽石門

園比嘉武御嶽石門は、国王が外出する際に安全祈願をした礼拝所で、琉球石灰岩によって造られています。

1519年、第二尚氏王統3代目・尚真王(しょうしんおう)の時代に、八重山・竹富島出身の西塘(にしとう)という役人によって建てられました。

守礼門と同様に1933年に国宝に指定されましたが、沖縄戦で一部が破壊。1957年に復元され、現在は国指定重要文化財および世界遺産に登録されています。

・歓会門(かんかいもん)

歓会門

首里城は、外郭(外側の城郭)と内郭(内側の城郭)によって二重に囲まれていますが、歓会門は外郭にある最初の門です。

アーチ状の門の上に木造のやぐらが載せられている他、門の両側には対になったシーサー※が置かれています。

※獅子の姿をした像。沖縄では古くから魔除けとして建物の入り口や屋根に飾られている。

歓会門は別名「あまえ御門(あまえうじょう)」といい、琉球の古語で「あまえ=喜ばしいこと」を意味しているそうです。

尚真王の時代(1477-1527)に創建され、沖縄戦後の1974年に復元されました。

なお、歓会は「歓迎する」という意味。中国皇帝の使者・冊封使(さっぽうし)が首里城に招かれていたこともあり、城を訪れる人々を歓迎するという意味で名付けられたと言われています。

・龍樋(りゅうひ)

龍樋とは、琉球石灰岩の間から湧き出す樋口(水の出口)のこと。石彫刻の龍の口から湧水が流れ出していることから、その名が付けられました。

龍頭は1523年に中国からもたらされたもので、現存する彫刻物のなかで唯一当時のものです。

龍樋の水は王宮の生活飲料水として使われていた他、冊封使が琉球王国を訪れた際は彼らの飲料水としても使われたそうです。

那覇港近くの「天使館(てんしかん)」という宿舎まで、毎日水を運んだと言うのだから驚きですよね。

なお、龍樋の周りには、冊封使たちが水の清らかさを褒め讃えた七つの石碑(冊封七碑)が建てられています。

・冊封七碑(さっぽうしちひ)

冊封七碑

龍樋の周りに置かれた七つの石碑。冊封使が水の清らかさを讃え、漢詩を詠んだり題字を残したりしたそうです。

沖縄戦でほとんどが失われましたが、1984年の発掘調査の際に発見された「飛泉(ひせん)」という石碑が、沖縄県立博物館に保存されていた「漱玉(そうぎょく)」という石碑の残り半分だと判明し話題にもなりました。

以下、七つの石碑は拓本をもとに復元されています。

◆中山第一(ちゅうざんだいいち)

1719年に来沖した徐葆光(じょほこう)の題字。「泉の水量は、水質は琉球第一の泉である」の意。

◆雲根石髄(うんこんせきずい)

1756年に来沖した全魁(ぜんかい)の題字。「山の高いところの穴から湧き出る石の乳である」の意。

◆暘谷霊源(ようこくれいげん)

1800年に来沖した趙文楷(ちょうぶんかい)の題字。「東のはての日の出るところにある不可思議な泉である」の意。

◆活潑潑地(かつはつはつち)

1808年に来沖した斉鯤(せいこん)の題字。「魚がはねるように水の勢いが極めて活発な泉である」の意。

◆源遠流長(げんえんりゅうちょう)

1838年に来沖した林鴻年(りんこうねん)の題字。「泉は源が遠く流水が長い」の意。

◆飛泉漱玉(ひせんそうぎょく)

1838年に来沖した高人鑑(こうじんかん)の題字。「清らかな泉があたかも玉のように飛び散っている」の意。

◆霊脈流芬(れいみゃくりゅうふん)

1866年に来沖した趙新(ちょうしん)の題字。「霊妙の水脈から出る薫り高い流れである」の意。

・瑞泉門(ずいせんもん)

瑞泉門は第二の門。アーチ状の構造をした歓会門とは異なり、双璧の門の上に直接やぐらが載っています。

門の右手前に龍樋があることから「瑞泉=立派な、めでたい泉」と名付けられたそうで、別名「ひかわ御門※」といいます。

※ひかわとは、「樋(ひ)」と「川(カワ、カー)」を掛けあわせた言葉。「樋」は川や泉から水を引く長い管や、屋根の雨水を流す装置のこと。また沖縄では井戸や泉のことを「川」と表現することから「ひかわ」となった。「フィージャーガー」とも発音する。

1470年ごろに創建されたと言われており、1992年に復元されました。門の両側には歓会門と同じくシーサーが置かれています。

・漏刻門(ろうこくもん)

漏刻門

漏刻門は第三の門。別名「かご居せ御門」と呼ばれています。

これは、カゴに乗って首里城へ登城した身分の高い役人が、国王に敬意を表して漏刻門でカゴを降りたことが由来となっているそうです。

漏刻とは中国語で水時計を意味する言葉。その名の通り、門の上のやぐらには水槽が置かれ、水が漏れる量で時間を計ったと言われています。

時刻の測定後に太鼓を叩き、それを聞いた別の役人が3つの箇所で同時に大鐘を打ち鳴らして城内外に時刻を知らせる仕組みとのこと。

1456年の朝鮮の記録には、「(琉球のそれは)我が国のものと何らかわりない」と漏刻の制度について記載があったようです。

・日影台(にちえいだい)

漏刻門の正面に置かれている日時計で、水時計の補助的な役割を果たしていたと言われています。

1739年、従来の漏刻は不完全だとして初めて日影器(にちえいき)が製作・設置され、以後、1879年の廃藩置県までこの時間制度は続いたと伝えられています。

・万国津梁の鐘(ばんこくしんりょうのかね)

万国津梁の鐘は、1458年に首里城正殿に掛けられていたと記録されています。

しかし、具体的な設置場所が分からないことから、広福門前の広場にある供屋に置かれています。※

※首里城公園にあるのは沖縄県立博物館に収蔵されている万国津梁の鐘のレプリカです。

鐘には「琉球国は南海の美しい国であり、朝鮮、中国、日本との間にあって、船を万国の架け橋とし、貿易によって栄える国である」という旨の文章が刻まれています。

なお、2000年に開催された沖縄サミットの会議場・万国津梁館は、この鐘から名前を取って付けられたそうですよ。

首里城の再建の予定と寄付金について

首里城について、「再建されるの?」「寄付金・義援金の受付はするの?」と思う方もいるでしょう。

2019年10月31日現在、再建や寄付金に関する情報は出ていません。

しかし、世界遺産ですし、それ以前に後世に残したい琉球の遺産なので火災の要因を突き止めた後、再建やそれにともなう寄付金の募集が行われる可能性は高いと言えます。

ただ、再建には当時の設計図などを記した資料が必要です。首里城が復元されてから27年、当時の資料が保管されていることを願うばかりですね。

また、公的に寄付を募る場合、総務省や文化庁、沖縄県、那覇市が主体となることが予想されます。

早ければ1週間前後から募集を開始する可能性があるので、寄付を考えている方はチェックしてみてください。

情報が出たら、こちらでも追記いたします。

なお、寄付金や義援金に関しては詐欺が横行するおそれもあるので、寄付や募金を行う際は、募金先の団体について調べることが大切です。

解体の窓口

首里城火災の復興寄付を行う方法【2019年11月4日追記】

首里城火災から4日、那覇市および那覇市に関係する一般財団法人による支援活動が開始されています。

現在は、以下の方法から寄付を行うことが可能です。

・首里城公園基金へ寄付

火災によって焼失した首里城の再建と、被災した美術工芸品の収集・復元・保存を目的とした基金です。

参考:首里城公園ホームページ

振り込みに関する詳細は、首里城公園ホームページよりご確認ください。

<受付>

一般財団法人 沖縄美ら島財団 首里城基金担当

沖縄県那覇市首里金城町1丁目2番地

098-886-2020

・那覇市 支援金活動事務局へ寄付

那覇市が行う支援金活動です。火災の翌日、2019年11月1日より募金箱の設置と支援金受付口座を開設しています。

募金箱が設置されているのは「那覇市役所本庁(1階総合案内)」「那覇市各支所(真和志支所・首里支所・小録支所)」です。

参考:那覇市公式HP

支援金受付口座の詳しい情報は、那覇市公式HPからご確認ください。

なお、首里城公園が行っている寄付とは別になるので、混同しないように注意してくださいね。

<募金箱・口座振り込みの問い合わせ>

総務部 総務課

沖縄県那覇市泉崎1丁目1番1号 市庁舎5階

098-862-9911

・ふるさと納税で寄付

那覇市によるクラウドファンディング"沖縄のシンボル「首里城」再建支援プロジェクト"でも寄付金を募っています(2019年11月1日~2020年3月31日)。

参考:ふるさとチョイス 沖縄のシンボル「首里城」再建支援プロジェクト

決済はクレジットカードで、2,000円から寄付が可能です。返礼品はありませんが、通常のふるさと納税と同様に納税額に応じて住民税・所得税の控除が受けられます。

なお、那覇市がインターネット上で募金を受け付けているのはこの一カ所のみ。インターネットを通じて寄付を行う場合はご注意ください。

・イオン琉球のWAONで寄付

イオン琉球が販売しているWAONカードには、元々首里城の文化を守ることを目的とした「首里城WAON」があります。

参考:WAON公式ホームページ

利用金額の一部が、首里城基金を通じて文化遺産の収集・保存のために使われるそうなので、WAONカードを利用する方にとっては最も気軽にできる支援の一つでしょう。

なお、WAONカードの価格は1枚300円(税込)で、これまで利用していたWAONカードからのポイント移行も可能です。

こうした支援の輪は沖縄県内だけにとどまらず、日本全国や海外でも広まっています。

熊本城が被災した熊本県は首里城復興のための応援募金を行うとし、2020年3月31日まで熊本県庁などに募金箱を設置しています。

また、米国ハワイでは県人会組織ハワイ沖縄連合会(HUOA)が再建支援を募るサイトを開設。首里城の復興を願う声が、海を渡り沖縄に届いているのです。

私たち沖縄県民も、今できることから始めていきましょう。

まとめ

首里城は歴史の中で何度も失われてきましたが、そのたびに記憶よりも鮮やかに蘇ってきました。

形あるものはいつか消えてしまうのでしょう。しかし、焼けてしまったらから終わりではありません。

琉球王国という国があったことを、首里城とともに次代へと残したいと願う沖縄県民は少なくありません。

朝日が照らす赤を、青い空に映える赤を、夕日が染める赤を、もう一度目にする日が一日でも早く訪れることを願って…。

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Writer この記事を書いた人

新里 千穂
沖縄生まれ・沖縄育ちの30代。執筆活動をするかたわら、趣味のハンドメイド雑貨をちまちまと制作中。主婦ならではの目線で暮らしの情報を分かりやすく伝えます。
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